2012年1月23日月曜日

特養コウノトリ荘

母の体が完全に不自由になったのは、2回目の脳梗塞で倒れてからでした。
父を介護する生活の中で、糖尿病から脳梗塞を煩い、父の介護を兄夫婦が引き続けていく中、母は、老人保健施設にお世話になりました。
我がままいっぱいで、それまで母に苦労をかけていた父が、母をしたい、会いたくて会いたくてたまらなく、面会に連れて行くと、顔をくちゃくちゃにして喜ぶ姿に心震える思いがしたものでした。


その後、豊岡の特別養護老人ホームコウノトリ荘にお世話になることになったのが平成14年9月。10年近く前のことでした。

会いに行くたびに、リハビリで少しでも機能が回復するようにと、自分の力で車いすを進めたり・・・

 手すりにつかまって立ったり・・・つかまり歩きをしたり・・・

 腕を上げたり、肩を動かしたり・・・


頑張っているところを見せてくれていましたが、ベッドから自力で起き上がれないというのが大きな障害でした。この1年後には父が他界しました。


 それから8年余。認知症も少しづつ進み、会話もあまり進まなくなったころ、面会に行ったときに必ずしたのが、じゃんけんと歌でした。ウサギとかめや浦島太郎、一寸法師など、昔話の童謡などを歌いながら時を過ごすようになりました。         (2008年頃の様子です)



 が、歌う声も出なくなり、私に出来ることは、母が食事をするときにスプーンを持つ手の手伝いくらいとなりました。

昼食後に、コウノトリ荘の所長さんが、入所者で希望する人を集めて紙芝居や歌のお楽しみをして下さるのを見に行ったりもしました。


「いちどきん祭」という、豊岡の4つの高齢者福祉施設で行われる、年に一度のお祭りも、何回か一緒に楽しませていただきました。


一年半ほど前からは、自分でスプーンも持てなくなり、訪ねて行って、私に出来るのは食事を口に運んで上げることだけになりました。


そして、昨年の10月のお誕生日会。私には初めて参加させていただいた、母にとっては最後の誕生日会となりました。93歳でした。一人一人記念撮影するのに、つむったまま目を開けないでいた母が、廊下に出たとたん、少し目を開けるので、「恥ずかしいから目をつむっていたんか」というと、うなづきが返ってきたのにびっくりしたりもしたものでした。このころにはもう、目を開けることも、声かけに頷き返すことも、ほとんどなくなっていたからです。


コウノトリ荘への最後の訪問となったのは、1月16日でした。その一週間前には、食事の手伝いをすることもなくなっていたので、心の準備はできていましたが。

母の隣のソファをベッドにして過ごした、初めての、そして最後の4日間。コウノトリ荘の介護士さんたちには、ほんとに良くしていただきました。付き添う家族へも細かい配慮をしていただき、夜間、のどに絡む痰を取りにも、一時間置きほどに来てくださいました。

母が息を引き取ったとき、そばにいたのは夫。私がその場を少し離れた僅かのあいだでしたが、夫は、前から私が頼んでいた通りにしてくれていました。呼吸が止まったときに、呼び戻してあげてほしいと。呼び戻して、3回目にはもう戻らなくなったとのことでした。

くしくも、母が息を引き取ったのは、私の誕生日。時こくもほぼ同じでした。

今はただ、長い間お世話になったコウノトリ荘への感謝と、母が心安らかな眠りについてくれることを思うばかりです。


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